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春田邸と文化のみち
プロローグ

「あの頃」を伝える邸宅、旧春田鉄次郎邸。今までの和風文化から大きく変わって様々な洋風文化が取り入れられていった「大正時代」は、日本の歴史の中でも伝統と近代化が織り交ざった特別な文化を持つ時代です。家は人々の暮らしの息吹を伝える場所。それぞれの人々の「あの頃」には、あの街並みで、あの建物で、あの木の下で、どんな人が、どんな服を着て、どんな会話していたのでしょうか。春田邸もそんな「時代」を伝える歴史的な建造物です。時代を伝える「あの頃」のストーリーを、どうぞご覧ください。

Story1
文化のみち

歴史1

‐日本の産業を支えた偉人達が暮らした街‐

旧春田邸のある白壁・主税・撞木町並み保存地区は、「文化のみち」の別名を持つ街。ここには大正~昭和初期頃に建てられた近代洋風建築が多く残っており、名古屋の近代文化の発展を伝える大きな意義を持っています。この街にゆかりのある人物は、ソニー創業者 盛田昭夫氏、トヨタグループ創始者 豊田佐吉氏の弟、豊田佐助氏など錚々たるメンバーばかり。文化財や景観重要建造物 が多数建ち並ぶこの街は、静かに名古屋の時代の流れを見守っています。

Story2春田邸の主、
春田鉄次郎

歴史2

‐苦心して運命を拓いた人‐

春田鉄次郎氏は、大洋商工株式会社をおこし陶磁器の貿易商として財を成した人物ですが、様々な不幸に直面しながらも奮闘を続けた人であったと伝えられています。農村の生まれでしたが、幼くして実業家を志し、21歳で中国、29歳でアメリカに渡航。当時、周りからは夢物語と考えられていた米大陸に支店を持ち、ヨーロッパやオーストラリアにも販路を拡大し、世界を舞台に活躍をしました。飛行機のない時代ですから、外国へ渡るだけでも大変だったことでしょう。また、戦争や経済恐慌の波にも翻弄され、前進しては後退しつつも自らの人生を切り拓いていきました。会社のニューヨーク支社では、毎年社員と家族を集めてピクニックを催していたというエピソードも残っています。氏亡き後は、「自ら働かずして財を得るなかれ」という鉄次郎の遺志を汲み、財産の多くが没後名古屋市へと寄贈されました。

Story3
関西建築界の
父、竹田五一

歴史3

‐新しいものと伝統の融合‐

春田邸を設計した武田五一氏は、日本の近代建築の基礎を築いた建築家で、ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーヴォーやセセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した人物です。また建築以外にも、工芸や図案・テキスタイルデザイン、家具や照明等のデザインを自ら手掛けるなど様々な才能を持っていました。旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライト氏とも親交があり、国会議事堂建設をはじめ、大規模な多くのプロジェクトに関与するほどの人物で、個人の私邸を設計するのは珍しく、春田氏と私的な交友関係があったことから依頼を受けたとも言われています。建築に対してこだわりのあった施主である春田氏は、武田氏とも、春田邸の建築にあたっては話し合いを繰り返して意見をぶつけ合ったのでしょうか。建築家と施主のこだわりが詰まった春田邸が、今に残されています。

歴史

Story4
もうひとつの春田邸

‐外国人や学者などの
文化人が暮らした「春田文化住宅」‐

春田鉄次郎邸建築から3年後、春田邸の横に建てられた13戸が集まる「春田文化住宅」。洋風の生活様式が取り入れられた、最先端の名古屋初の高級集合住宅として、地元の学者や名士たちが暮らしたそうです。設計は同じく武田五一氏で、春田文化住宅は中庭を囲んで建ち並ぶような設計となっており、中庭の中央にはシンボルツリーとして大きな桜の木が、毎年見事な花を咲かせていたと聞いています。子供たちが駆け回り、当時はきっと、にぎやかな声がこだましていたことでしょう。こちらも貴重な建築物でしたが残念ながら保存は叶わず、平成24年に解体されています。

文化のみち
Photo Gallery

文化のみち1

1.
名古屋市市政資料館

大正11年に建てられたネオバロック様式のレンガ造りの建物で国の重要文化財「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」です。

Story5
社交の場
としての
旧春田邸

旧春田邸

‐和と洋が織り交ざった邸宅‐

デュボネのある旧春田邸の洋館部分は、大切なお客様をおもてなしする社交の場として使われていました。外国に販路を拡大していた鉄次郎は、交友関係も広かったのでしょう。アメリカ人やドイツ人との交流もあったそうです。多くの客賓を招いてパーティーを開催したり、様々な貿易にまつわる商談にも使われたりしたのでしょうか。1階の洋間にある面取りされたヨーロッパ製ガラスがはめられた扉は、陽をあびると虹色に輝いて床を照らし、ヨーロッパ製のガラスの取手がつけられていました。そんな装飾が随所に凝らされた春田邸は、贅を尽くした造りとなっていますが、半面、実用的なエピソードも残っています。関東大震災の翌年に建てられたこともあり、春田氏が設計者である竹田氏に最も求めたものは「頑丈な造りであること」だったとも言われています。時代背景に想いを馳せながら、色々な視点で春田邸をみてみると新たな発見があるものです。

Story6
灯りと
春田邸

歴史7

‐日本の暗闇を照らした、希望の光‐

今では当たり前となった、夜でも電気を灯せる明るい暮らし。日本では明治5年に横浜で一般の人の前に初めて「ガス灯」が登場しました。それまでは“ろうそくや行灯”による灯りが一般的だった時代、当時の人にとっては、ガス灯の輝きはとてもびっくりするものだったようで、遠くから見物人がやってくるほどでした。ガス灯が点くと、毎夜祭りのようなにぎわいだったと言われています。電気による「電灯」はその6年後の明治11年に登場し、名古屋には明治22年に電気が初めて灯ったそうです。春田邸建築当時はまだ電気の供給が安定しておらず、春田邸では電灯の他にもガス灯が併用されていた跡が多数残されています。最先端の技術であった電気を使って風情を演出するのは何ともオシャレです。

Story7
人力車と
春田邸

歴史8

‐人力車の走るまち‐

明治から昭和初期の移動手段であった人力車。籠より早く馬より安い移動手段として、当時は20万台以上の人力車が日本中を走っていたそうです。政治家や実業家たちはお抱えの車夫を持ち、人力車に乗って移動していました。実業家たちの社交の場だった春田邸には、着飾った男女が人力車に乗って集ったのでしょう。春田邸の玄関脇には「車夫待ち」と呼ばれる、人力車の運転手=車夫、が待機をする場所が建物になじむように設置されています。実用的な役割を持ち当時の生活に想いを馳せることができるひとつの場所です。

Story8 戦争と春田邸

Story8
戦争と春田邸

‐アメリカ人と共に暮らした4年間‐

戦後の昭和22年から26年にかけて、春田邸の半分は米軍第5航空指令部により接収され、米軍の将校一家が住んでいました。当時、春田邸の和館と洋館の境目に「扉」が付けられ、洋館部分に米軍将校一家が、和館部分に春田家が住んでいたそうです。春田邸の2階はアメリカの生活様式に合うように、畳敷きの和室がフローリングの洋間に張り替えられ、それが今もそのままと残っており、激動の時代の流れを現代に伝えています。

旧春田邸
Photo Gallery

春田邸1

1.
階段

計算しつくされたバランスの階段灯や美しいフォルムの階段。腰板には楓を使用しています。

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